多くの人で賑わう名城公園の西口 中土戸橋を出ると、住宅と事業所が混在するどこにでも有るような街並みがひろがる。
 名城公園は、かつて名古屋城の一部「御深井の庭」であったことは知られているが、堀川(黒川)を渡ったこの地区も、最初は御深井の庭の一部であり、後には矢来で囲み、中に御側組の鉄砲組・弓組などが住んだ「出丸」(本城から張り出して築いた砦)であった所である。


 「御深井御山之内」とは  矢来・門番・弓組・鉄砲組


今は「城西五丁目」と呼ばれるこの地域、かつては「御深井御山之内」とか「御山之内」と呼ばれていた。
 変わった名である。山でもない平地に「御山」という名がついていたのだ。『金城温古録』に、御深井の庭の北部は「皆、平山の松林なりしかば、是を松山と号せられる。俗には御山と称ふ。後、其御山、西北の端を欠て、御側組御足軽役屋敷に成し下さる。故に其の旧称を伝えて、御深井御山の内と名付けたり」と記されている。
 今は、堀川(黒川)により名城公園と分断され別の地域と感じられるが、かっては地続きで御深井の庭として一体の土地であった旧称が引き継がれたわけである。
 御深井の庭の一画が御側組足軽屋敷になったのは、寛文4年(1664)に「御側組御足軽頭」がおかれたとの記録があることから、この年のことと考えられている。黒川の前身「大幸川」がこの地を流れるようになったのは天明4年(1784)からなので、最初は殿様の庭に足軽屋敷があるという状態だ。家臣の配置は、重臣は三の丸などの城内に屋敷を与えられ、小身のものは城から離れた場所になる。御深井の庭に足軽屋敷がおかれたのは、ただの足軽ではなく「御側組」という特別な位置づけだったからであろう。



「御山之内」と周辺の図
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 この地は特殊な場所であった。大幸川を挟み御深井の庭に面した東側を除き、北・西・南はすべて矢来(竹や木で作られた柵)で囲まれている。入り口は4か所。北と西は各1か所で南が2か所だ。木戸が設けられ門番がいる。門の外には制札が建っている。御深井の庭に近い北と南の2か所は「御用の無い者は一切入るべからず」と書かれている。「御用」とは「御」がついているので藩の公用を指している。一般の人は入れない門だ。西と南の2か所は「勧進や乞食などは入るべからず」と書かれ、矢来の中に用のある人はここから出入りしていた。中に入ると中土戸橋から西へ伸びる道が多少曲がりながらも、幅が広く地区のメインストリートになっている。今も中土戸橋から武嶋天神社へと伸びる道が曲がっているのは、この江戸時代の名残りを残しているのである。矢来に囲まれたこの地区内のすべての道は、見通されないようにT字路になり「御山七曲り筋」という屈曲した道もあった。
 この厳重な警戒の中に住んでいたのは「御側物頭同心」の「弓組」が1組、「鉄砲組」が2組の計3組だ。そもそも御側組は4組しかない。そのうち3組までがここに配置されていたのである。残る1組(鉄砲組)は御深井の庭の東側に配置されていた。「御土居下同心」と呼ばれたのがそれである。御深井の庭の東西に御側組が配置されていた。西が3組で東が1組と少ないのは、城の北東は馬の背も立たないという沼沢地で自然の要害であったからであろう。1組の人数は19人(記録によっては20人)。ここには60人近い部隊が駐屯していたのである。地区内には矢場が2か所あり、武術の訓練も行われていたが、御深井の庭の土運び・枝打ち・草刈りなどの管理も行い、俗に「御庭御足軽」「御庭組」とも呼ばれていた。
 「弓組」「鉄砲組」のほか、「御小納戸下役」「奥坊主」「奥陸尺」(人夫のこと)「御庭御中間」も住んでいたと記録されている。いずれも身分は低いが藩主の奥向きの仕事に従事していたようだ。

 東に配置された「御土居下同心」については、その一人の子孫である岡本柳英氏が、同心による昔の記録や口伝をもとに『名古屋城三之丸・御土居下考説』を著している。それによると、門の警備などの通常任務のほか、落城のときには藩主を土居下から大曽根を経て木曽方面へ脱出させるという、秘密の重い任務を担っていたとされている。 ここ「御山之内」に配置された同心たちも秘密の任務を持っていたのであろうか。秘密であれば口外・記録されることもなく、今となっては知るすべもないのが残念である。
 『金城温古録』は「御山之内」について「これ、御庭曲輪の為に西北の出丸にて、その矢来の門は、御庭曲輪中土戸の為に、皆二ノ木戸の御締りとなれる所なり」と記している。この地は御深井の庭の前衛として設けられた砦だったのである。

「御山之内」の詳細図
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「御深井御山之内 細見」
 (『金城温古録』より)

【参考】 『金城温古録』 『名古屋城三之丸・御土居下考説』 ほか

伊藤正博 2005/5/24

   

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