水運・水軍 尾張藩蔵 御普請方役所 御船手役所 御水主 堀川
堀川端の役所
 江戸時代、堀川の今の洲崎橋付近には、尾張藩の水軍や水運、河川行政をつかさどった役所‥‥御普請方役所、御船奉行屋敷、御船手役所、船番所、水主屋敷‥‥が建ち並んでいた。水運の便がよい堀川岸は、水に関係する軍事・行政の中心にもなっていた。
『尾府全図』 部分
御船行列
『御船御行列之図』 部分 ( 「青字」は図記載の文字、「黒字」は筆者の推定による記入)

 御船奉行屋敷  御船手役所  船御番所
 御水主屋敷  御普請方役所

御船奉行(千賀志摩)屋敷
御船奉行屋敷
 堀川東岸にある立派な構えの屋敷。川沿いに白壁をめぐらし、広い石段を登ると長屋門、奥には数棟の大きな建物と木が生い茂る庭が見えている。 ここは、代々、尾張藩の御船奉行を勤めた千賀志摩守のお屋敷である。

 御船奉行は、尾張藩水軍の責任者‥‥現代風にいえば海軍大臣といったところであろう。
 1800年頃の記録では、配下として船軍者、大御船頭、御船頭、御船大工、御水主之者が挙げられており、弘化4年(1847)の記録では、船軍者 1名、船手改役 3名、船手與力 5名、大船頭 8名、船頭 10名、船大工 3名、水主 123名となっている。

 奉行はこれらの者を指揮し、水軍の統率や藩船の管理を行っていた。また、年貢を完納する前に農民が米を売るのを取り締まるため、検問の船を出すように指示された記録が残り、警察的な仕事や廻船など民間の船の取締りも行った。熱田の船会所や熱田船番所などを監督するとともに、文化10年(1813)までは船頭が多く住んでいた熱田の東脇浦、大瀬子浦、須賀浦も支配するなど、幅広い職務を担当していた。

 御船奉行には複数の者が任命され人事異動があったが、この屋敷に住む千賀志摩守は江戸時代を通じて常任の御船奉行である。
 最初は海方と川方に担当が分かれていたが、寛保元年(1741)に統合され、延享3年(1746)からは熱田奉行が御船奉行も兼務することになった。これは、白鳥にあった御船蔵や熱田の船会所などの管理は熱田奉行による兼務のほうが効率的だったからと思われる。千賀氏は主に軍事的な面を担当していたようである。


千 賀 氏 と は ?

千賀志摩 
 千賀氏は師崎や篠島、日間賀島など1500石を領有し、代々藩の御船奉行を務め、藩船と自分の所有する船(千賀船)とをあわせて海防と廻船の取締りなどを行っていた。

 出身は伊勢の志摩地方を根拠にした「九鬼水軍」の九鬼氏一族で、的矢湾に面した千賀浦を根拠にしていたことから「千賀」姓を名乗るようになった。
 その後、知多半島の師崎に本拠地を構え、天文年間(1532〜1555)に徳川家康の配下に入って船奉行となり三河湾の海上警備を担当し、小田原の役にも従軍した。
 天正18年(1590)にあった家康の関東移封に従い、江戸湾の入り口にあたる相模の三崎(現:神奈川県三崎市)に移住して船奉行(1000石)を勤め、朝鮮出兵では家康配下で輸送に従事した。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは知多半島の守備を担当し、その功績で再び師崎など1500石を領有するようになり、徳川義直が初代尾張藩主になると船奉行に任命された。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣では豊臣方の水軍と戦い数十隻の船を奪い、後に「大阪丸」と呼ばれた大型の関船はこの時の戦利品である。
 その後は代々尾張藩の船奉行を勤め、幕末の動乱の時代には長州征伐や戊辰の役の北陸戦争や会津戦争に尾張藩軍として従軍した。
                                        



千賀紋と尾張の船印

千賀氏 船印  絵は『御船御行列之図』の一部。
 尾張徳川家の葵の紋とともにひるがえるのは五本骨の扇の紋‥‥千賀氏の紋でである。 この大行列を御船奉行の千賀氏が指揮をとっているという旗印であろう。

 一時期、この紋は尾張の船印として廻船など民間の船にも掲げられていたが、寛保元年(1741)からは「尾」印に変わったと記録されている。


                                          


御船手役所

堀川を行く船行列『御船御行列之図』 部分  堀川東岸に面し、紫川北側の一画には長屋門の中に多くの建物が並んでいた。

 ここは御船手役所。
 「船手」とは、船のことを取り扱う者‥‥役所には「船手改役」がおかれ、船に関係する様々な仕事を行っていた。

 廻船問屋の営業や堀川を出入する荷物を取扱う許可、「船改め」といって、堀川の船を検査し船に黒印を打ったり、焼印札を渡したり‥‥今の船籍検査のような仕事も担当していた。
 また、熱田の船頭や水主の生活を助けるために、船方新田の干拓も行った。

   
尾張名所図会『尾張名所図会』 部分

船御番所


 江戸時代の名古屋では、不審な出入りがないように城下への主要な出入口には大木戸が、城下のおもな辻には木戸が設けられ、夜間は閉鎖されて出入や通行ができないようになっていた。
 堀川は熱田の浜から城下へ直行できる交通路であり、ここでは「船番所」をおいて出入が取り締まられていた。
 船番所は、ここ天王崎と下流の尾頭橋の2か所に置かれ、上り下りする船の乗客や荷物の検査、川役銭の徴収を行い、禁止されている夜間に通航する船がいないか監視していた。

 堀川に入ってくる船は、下流の尾頭船番所で入船の切手(通行証)を受け取り、下るときに この天王崎船番所で切手を提出して、引き換えに出船の切手が渡されることになっていた。
 また、城下に船で運ばれる年貢米は、代官や庄屋の送り状を持っているか、また、商人が取引する米なども誰が誰の船でどれだけの量を運ぶのかを番所に届出て、検査を受けて通っていた。

 船番所が最初に置かれたのは、承応2年(1653)。場所はここより少し上流の、本重町(現:御園小学校の南側の通)が堀川に突き当たる葭町内の川岸。現在の錦橋の北東橋詰付近であった。
 享保9年(1724)5月13日、午後2時頃に祢宜町(現:中村区、柳橋交差点の南西)から出た火が燃え広がり、北は堀詰町(現:西区幅下二丁目)、東は伏見町(現:伏見通)、西は広井町まで炎に包まれた。翌日の午前4時頃まで燃え続け、堀川両岸の町はすべて焼失した。五条橋、中橋、伝馬橋も燃え、この時、葭町にあった船番所も焼け落ちた。この火事は「享保の大火」と呼ばれ、名古屋の町では1660年の「万治の大火」、1700年の「元禄の大火」に続く3回目の大火災であった。
 この火災のあと、船番所は この天王崎に再建され、幕末まで行き来の舟を監視していたのである。

 幕末の嘉永6年(1853)に夜間通航が許可され、明治元年(1868)には川役銭の徴収が廃止され、その役割を終わった。

                                        


船 番 所 は ど こ だ ?

 さて、船番所はどこにあったのだろうか?
 川岸に何軒かの建物が建っていた。このあたりは船に関係した役所が集まっており、船で仕事に出かけたり、役所を訪ねる人も船を利用する事が多かった。岸辺には、船番所のほかに各役所の船着場や倉庫などもあったと考えられる。さて、いくつも有る建物のうちどれが船番所だったのであろうか?

 『尾張名所図会』の建物

堀川岸の絵

 この絵の中で、番所の可能性があるのは、左の御船奉行の屋敷前の建物、中央左と中央右の石垣の上の建物の3棟。これらは、他と違い立派な造りなので、船番所か付近の役所の施設で、それ以外の建物は付属する倉庫などだったのではないかと考えている。
 『御船御行列之図』の建物

 一番納屋橋寄りの建物。御普請方役所の前に建っている。 川の中に張り出して石垣を組み、その上に土蔵のような建物が建っており、川岸では一番立派で目立つ。私はこれが番所ではないかと考えている。
 
上の『尾張名所図会』では、この場所は絵の外になるので描かれていない。

 御船奉行のお屋敷を出た所に建っている。中央がくぼんだコの字型の建物で、右の建物とよく似た形状である。

 御船手役所の前、紫川が合流する所の北側に建っている。

上の『尾張名所図会』では、この場所には違った建物が描かれている。

御水主屋敷

 左端で堀川に流れ込んでいるのが紫川。 御水主屋敷は川の南側にあり、絵では川の右側に屋敷を取り囲む白壁と建ち並ぶ屋根が見えている。
 「水主」は「かこ」と読み、船乗りのことで、「御」がついて「御水主」と呼ばれたのは、水軍を始めとする藩船の運航に従事していたからである。

 御水主屋敷は、以前は堀川西岸にもあり、西水主町という町名にもなった。 今でも、この名残で岩井町線と江川線が交わる所は「水主町」交差点(中村区名駅南三丁目)と名づけられている。
『御船御行列之図』 部分


世界一長い漂流  督乗丸船頭の重吉も住んだ? 御水主屋敷


 督乗丸の遭難

 江戸時代後期になると、「尾州廻船」と呼ばれる尾張の海運業が活発になり、それにともなって海難事故もたくさん発生した。
 名古屋納屋町(現:中村区、納屋橋の西)の小島屋庄右衛門の船 督乗丸は、文化10年(1813)10月下旬 江戸を出航し名古屋に向かった。船は1200石積み、乗り組んでいたのは船頭の重吉をはじめとする14人。
 遠州灘を航行中の11月4日、嵐に遭遇、万策つき船は漂流し始めた。東南に流され赤道付近に達した後、北に向かい、翌々年の1815年2月14日になってカルフォルニアのサンタバーバラ沖でイギリス船ホーストン号に救助された。漂流していた期間は実に1年4か月の長期、生き残っていたのは船頭の重吉を始めとするわずか3人であった。世界の海難史上でも一番長い漂流といわれている。
 カナダやカムチャッカを経由して帰国する途中でさらに1人が亡くなり、2人がロシア船で日本に送り返された。エトロフ島に着いたのは1816年7月9日、2年8か月ぶりに日本の土地を踏むことができた。
 鎖国をしていた当時の日本では、海外からの帰国者には取調べが待っている。松前から江戸に送られ、故郷の尾張半田村へ帰ることができたのはさらに1年近く経過した1817年5月であった。

 御水主に召し抱えられた重吉

 帰国した重吉は、「小栗」姓を与えられ、御水主として尾張藩に召し抱えられた。 しかし重吉は、わずか2か月で辞職し、その後は亡くなった仲間の菩提を弔う供養塔の建設に尽力した。
 供養塔は最初笠寺観音に建てられたが、その後成福寺へと移され、今も悲劇を伝えている。


船頭重吉 督乗丸
督乗丸乗組員の供養塔
(熱田区、成福寺)


御普請方役所

御船御行列之図  御普請方役所は、おもに土木工事を担当していた役所である。

 御普請奉行は寛永10年(1633)におかれ、定員2名で役高は300石。奉行の下には役割役、見分役、調方がいた。道路や河川などの工事や管理を行うほかに、屋敷奉行も兼務し藩士の屋敷も管理していた。 また、道路管理の一環という考えであろうか、お城の門などの番人も支配していた。
 今でも道路や河岸地など公共の土地を個人が使う場合、道路(河川)占用料を支払わなければいけないが、江戸時代も堀川の河岸を使って荷物の積み下ろしをしている者は、御普請方役所に運上銀というお金を払っていた。

 この他に、堀川沿川には建築工事を担当した「御作事方役所」が今の巾下橋西付近に、用水などの施設を担当した「杁方御作事場」が古渡橋の東南角にあった。

                               
『御船御行列之図』 部分

参考:『御船御行列之図』 尾張名所図会』 『尾張徇行記』 『金府紀較抄』 『服部文書』 『尾張志』 
『令留書抜』 『尾州家官制』 『御日記頭書』
 『編年大略』 『名古屋市史』  『新修名古屋市史』

伊藤正博

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