「中土戸橋」 変わった名前の橋である。季節になるとは、お城を遠景に見事な桜並木が堀川の両岸にのびてゆく。この橋は江戸時代から架けられていた由緒ある橋だ。


 「中土戸」とは  中土戸橋


「中土戸」といったいなんだろうか。『広辞苑』によると「土戸」とは「外面に土または漆喰を塗って作った引戸。土蔵の戸口窓などに用いる。一説に、築地に設けた門」となっている。「中土戸」の場合は、後者の方だ。
 『金城温古録』にも「土戸」の説明がある。京都御所や熱田神宮の信長塀のように、土塀の上に屋根を葺いたものを築地(ついじ)とか築地塀という。この築地に空けられた出入口が「土門」(つちど)であり、茨城県の水戸がかつては水門と書かれていたのが変化したように「土戸」に変わったとのことだ。本来は築地にあるのが「土戸」だが、江戸末期には塀に造られた出入口も本来は「塀門」と呼ぶところを混同して「土戸」と呼ばれるようになっていると記録されている。
 出入口だから戸が設けられるが、一定の様式はなく開き戸も引き戸もあった。

 今の名城公園は、かつては名古屋城の「御深井の庭」である。庭は矢来(木や竹で作られた柵)で囲まれ、この場所に幅1間(約1.8m)の出入口があり、2枚の引き戸が設けられていた。門を入ると左手に御番所があり、「御矢来番同心」が2人詰めて警備している。さらに進むと左手は田や畑が広がっている。今の県スポーツ会館や下水処理場がある場所だ。もとは名古屋村の耕地だったが、万治年間(1658〜61)に御深井の庭に取り込まれ、その頃は大きな池も有ったという。唐草が描かれた船が浮かべられていたことから「唐草堀」と呼ばれていた。それから115年後の安永元年(1772)に再び開墾が始まり天明4年(1784)に完成し「御深井御新田」となった。ここは殿様の田畑で、耕作していたのは「御作人」というお抱えの百姓であり、肥料は二の丸内にある便所の糞尿を使ったという記録が残されている。

『御深井庭及西御深井之図』部分
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「土戸」は名古屋城内に何か所もあった。ここは「中土戸」という名だ。「中」と名づけられた由来は2つの説がある。一つは、御深井の庭の北側にあった「桜道御門」と西側にあった「茅庵御門」の中間にあることから「中土戸」とする説である。『金城温古録』の著者はこれに異議をとなえている。この土戸の西には、ここを取り囲むように矢来(柵)がめぐらされ、鉄砲組2組、弓組1組の「御側組」が居住する「御深井御山之内」と呼ばれる外曲輪(城から張り出して築いた砦)が設けられていた。この外曲輪の門が「外」の門。それに対し、ここは「中」の土戸になることから「中土戸」とする説が二つめの説である。

 お城の北西はずれに設けられたこの御門、西に広がる「御山之内」に住む「御側組」(別名:「御庭組」)が出入していただけではない。
 殿様も出入したことがある。安永5年(1776)1月29日、この門を通り上小田井(現:西区)での鷹狩に向かったと記録されている。殿様なら正門である大手門から威風堂々と出入しそうだが、御深井の庭の「茅庵御門」「桜道御門」などから出入したこともある。一家の主人がゴルフに行くのに庭の木戸から出入りしている姿が連想され意外である。むろん一人ではない。鷹狩は軍事訓練的な面も強く、多くの家来を従え隊列を組んでの出発である。
 このことは、この門は御深井の庭のはずれにある通用口ではなく、城の一御門として位置付けられたものであることを示している。門を出ると御側組が住む「御山之内」があり、そこを抜け少し西に進むと「稲生街道」が北へと通じている。「稲生の渡し」で庄内川を超えれば鷹狩が行われた上小田井である。この門は、城北への近道であり、城北への備えの門であったのだ。




 「中土戸橋」は「中土戸」の前の橋であることから名づけられたことは、説明を要しないであろう。橋が架けられたのは、黒川の前身である「大幸川」がそれまでの江川から堀川に付け替えられ、この地を流れるようになった
天明5年(1785)のことと考えられる。同時に朝日橋、大幸橋、筋違橋も架けられた。

 『金城温古録』には「中土戸前の橋」という名で記載され、「欄檻(らんかん)四隅の柱、兜巾(ときん)頭に削造」と記録されている。親柱は頭が角錐に削られた簡素なものであった。
 同時期に架けられた上記の橋の内、朝日橋は中土戸橋と同様に兜巾頭造りだ。大幸橋は、巾下御門から美濃街道への道筋にあたるため、親柱には唐銅の擬宝珠(ぎぼし)が付けられた立派な造りで、擬宝珠には「天明五年乙巳四月」と彫られていた。

 現在の橋は、昭和7年(1932)に架けられたものである。
 

【参考】 『金城温古録』 ほか

伊藤正博 2005/6/3

   

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