「御成道」 地図にも名が記されていない忘れ去られた名前の道だ。
「御成」という名前から、偉い人が通った道だということは想像できる。いったい誰が通ったのだろう。一字違いの「御成通」という道もある。三階橋から平安通を結ぶ道で、昭和2年に天皇が通った道だ。これは町名にもなっている。

「御成道」はそれよりずっと古い。元禄時代にできた道だ。二代藩主光友がお城と大曽根の下屋敷を結ぶために造らせた道である。八王子神社の一本南をゆるやかに屈曲しながら東西にのびる静かな道がそれである。

 お殿様がとおった御成道  兵や大砲がとおった兵隊道

 尾張藩二代藩主 徳川光友は、慶安3年(1650)26歳で家督を継ぎ、「寛文の改革」と呼ばれる藩政の刷新、広小路の整備や建中寺をはじめ寺社の建立などに努めた。44年間の治世の後、元禄6年(1693)4月、70歳で長男の綱誠(つななり)に藩主の地位を譲って隠居した。

 9月に江戸から名古屋へ帰着。隠居の身なので遠慮したのか藩士の出迎えも断り、城の本丸には入らず三の丸の屋形で生活したという。翌7年7月15日に藩の重臣であった成瀬・石河・渡辺氏が大曽根に持っていた下屋敷を返上し、8月11日に光友が住むための「大曽根御殿」とも呼ばれた下屋敷の建築が始まった。
 これに合わせて、9月にお城と大曽根を結ぶ道普請も行われた。お城の東、外堀に沿って北に枳穀坂(きこくざか)を下った土居下から道普請が始まり、柳原を北へ180間(33m)ほど行った所で東に折れ、杉村に入り稲置街道を横切り大曽根に達する総延長1,343間(2.4km)の道であった。現在の柳原商店街南端あたりから北へ向い、柳原四丁目5番付近で東に折れ、国道41号を越えて開聞寺、久国寺、豪潮寺の南を東に向い、大曽根一丁目19番の南で国道19号に出る道筋である。つぶれた農地の代替地は名古屋新田内に与えられたと記録され、道幅は9尺(2.7m)ほどであった。これが御成道である。

 元禄8年(1695)3月18日(2月25日との説もある)、光友は新築された大曾根の下屋敷に転居する。荒廃していた大曽根八幡社を見て、9月には神殿の再建を行っている。
 元禄10年(1697)4月に、灌漑用水として使われていた猫ヶ洞池(現:千種区平和公園内)を下屋敷で使う御用水に定め、代わりに七ツ釜池(現:新池、千種区田代町)を築いて灌漑用水にした。11年(1698)に16挺立て(16人でこぐ船)の小早船(小型の軍船) 「従如丸」が光友の指示で造られ、大曽根下屋敷の池に浮かべられた。猫ヶ洞池から引いた水を満々とたたえた大きな池に、軍船が浮かんでいたのである。文武に優れ、とりわけ水練を好んだという光友らしい趣向である。

幕末の御成道  『安政年間名古屋図』より
 元禄13年(1700)10月16日、光友は当時としては長寿の76歳で逝去した。大曽根下屋敷での生活は、わずか5年余りの短い期間であった。翌14年(1701)12月には猫ヶ洞池を再び灌漑用水として民間に開放、16年(1703)に船は江戸の尾張藩邸に移され、後に民間に払い下げられた。

 宝永8年(1711)7月、四代藩主義通が下屋敷を訪問。邸内は相当壊されて元の持ち主に返されていた。しかし、光友が住んでいた建物はそのまま残っており、感慨ふかいようすでご覧になっていたという。

 下屋敷とともに造られた道は、その後も城北を東西に貫く幹線道路として幕末まで御成道と呼ばれて親しまれてきた。



 明治6年(1873)になると名古屋城に鎮台がおかれ、翌7年(1874)には小幡ヶ原(現:守山区、瀬戸線小幡駅北東一帯)に射撃場がおかれた。名古屋鎮台はその後第三師団になり、小幡ヶ原の射撃場も拡張されていった。名古屋城に駐屯する兵は射撃訓練を受けるため、御成道を通って大曽根に出て瀬戸街道で小幡ヶ原まで行軍するのが常だった。古老たちの記憶では、夕方になると演習から帰る兵が隊伍を組んで軍歌を歌いながら行進し、馬に引かれた大砲が大きな音を立てながら進んで来たという。これにより、道は「御成道」から「兵隊道」へと呼び名が変わっていった。


『明治22年 地形図』より
 今では、軍歌や馬のいななきも消え、砲車の車軸がきしむ音もなく、御成道は住宅が立ち並ぶ静かな道になっている。道に面してお寺が多いのが、かつてはメインストリートであったことを伝えている。

【参考】:『編年大略』『尾張徇行記』『尾藩世記』『金城温古録』『清水』『御座船浪漫』『東大曽根町誌』

伊藤正博 2006/10/13

  

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