堀川の浄化が叫ばれるようになって久しい。
 子供たちは堀川の水面近くに立つと「汚い。ウンチのにおいがする」という。年配の人は「きれいになった。以前の臭いにおいがなくなった」という。
年代や過去の経験・堀川への夢により、人それぞれの物差しではかっている。
 いったい誰が汚したんだ、なぜきれいにしないのだ‥と、犯人を探すと‥自分自身に行き着く。
声高にスローガンを叫ぶのは簡単だが、自分の身を振り返ることも大切だと、川面に写る繁栄の証 ビルの姿を見ながら考えた。

 


 江戸時代 堀川は清流だったのか  堀川は なぜきれいだったのか  明治から戦前
  堀川はどう変わっていったか
 戦後の高度成長と汚濁の悪化  堀川を 再び清流へ




○ 江戸時代の堀川

堀川は、慶長15年(1610)名古屋築城のときに掘られた人工の川である。自然の川と異なり、源流を持たない堀川は名古屋城の西で堀留となっていて、お堀の余り水が流れ込んでいた。その他にもいくつかの流入する水路があった。東岸では、伝馬橋と納屋橋の南東で付近の水を集めた小さな水路が流れ込み、今の新洲崎橋のあたりでは紫川が流入していた。紫川は、城下町のほとんどの地域の排水を集めて流れる幹線排水路である。さらに南に下ると日置橋の北東、今の山王橋や古渡橋にも流入する小規模な水路があった。西岸でもいくつかの水路が流入していた。今の小塩橋付近と納屋橋南西、古渡橋下流などで江川(庄内用水の東井筋)からの水路があった。

天明4年(1784)になると、それまで江川につながっていた大幸川が堀川に接続された。

○ 江戸時代の水質

西からの水路は庄内川の水を引き入れていた江川からの水であり、多少は人家からの排水も混じっているが非常にきれいな水質であったと考えられる。一方、人家が密集する城下町の排水を流す東岸の水路の水質はどのようなものであったのだろうか。

無論、この時代に水質調査など行われておらず、当時の断片的な堀川の様子から推察するしかない。当時の記録を見てみよう。

堀川で詠んだ「月見舟  漕わかれくる  鰯かな」という句が残っている。鰯の群れが泳いでいたのである。
 弘化元年(1844)から、袋町三丁目(現:中区錦二丁目)の丸屋正七という人が、堀川のはえ(銀鮒)を佃煮にして売り始めた。これは大正時代まで名古屋名物として知られ『諸国名物絵葉書』にも掲載されるほどであった。

また、それまで「堀川端上の西岸で魚を取ること、日置橋と古渡橋との間も蜆をとること」が禁止されていたのを、嘉永3年(1850)に解除したとの記録がある。近海を回遊する鰯が潮にのって堀川に入り、フナが名古屋名物になり、下流部では潮干狩りができたのである。近年、春先になるとボラの大群がさかのぼり、所々でコイが生息しているが、上記の生物は、地下鉄工事の地下水が放流され黒川が清流になったときに蜆が見られたのみで、今とは相当異なる状態である。

堀川では水泳も行われた。延享2年(1745)に、今の住吉橋下流の西岸に尾張藩により小屋が建てられ、五十人組の「水稽古」場所に定められた。藩指定の水練場が堀川にあったのである。『尾張名所団扇絵集』の一枚『堀川花盛』には、満開の桜の下、花見船とともに堀川を泳いでいる人の姿も描かれている。

このように、江戸時代の堀川は様々な魚がすみフナや蜆は食用にされ、水泳も十分できる水質であった。

『尾張名所団扇絵 堀川花盛』より


 江戸時代の名古屋の人口は10万人を越え、江戸・大阪・京都に次ぐ大都市であった。これだけ多くの人が住みその排水は浄化されることなく、ほとんどが堀川へ流れ込んでいた。今10万都市の排水が未処理のまま河川に放流されると相当の水質悪化になるが、江戸時代の堀川がきれいであったのはなぜだろう。

当時の名古屋の様子を見てみよう。

名古屋は城下町であり、この地方の行政・商業・工業の中心地である。武士とともに多くの商人や職人が暮らしていた。排水は生活廃水と産業排水があるが、今とは大きく異なる様子であった。

今の家庭から出る廃水は、3割が水洗便所、残り7割が風呂・洗濯・台所などの生活雑排水である。これらの昔と今を対比してみるとずいぶん違ってきている。

 まずトイレである。説明するまでもなく汲み取り便所で、近郊の農家が汲み取ってお礼に野菜などを置いてゆく。肥料として再利用され、水とともに河川へ排出されることは全く無かったのである。

次に風呂であるが、一般の家に風呂はなく多くは銭湯を利用していた。家族数人の利用で捨ててしまう家庭風呂に比べ、銭湯の一人当たりの水使用量は少なく、最近では死語となってしまった「行水」で済ますことも多かった。また、体を洗うには石鹸・シャンプー・リンスなどではなく「ぬか袋」が使われていた。風呂の排水には人体から出たアカなどの汚れと石鹸などの洗剤が含まれるが、アカなどはわずかであり洗剤が環境に大きな影響を与えている。

洗濯はどうしていただろうか。木のたらいに水を入れ、今のような中性洗剤・柔軟剤・漂白剤ではなく「あく」(灰を水に溶かした上澄み)や米のとぎ汁で洗濯をしていた。台所でも同様である。今と違って料理に油を使うことはほとんど無く、何度も飢饉が襲った時代でもあり、食べ残したみそ汁を捨てるようなことも無い時代であった。

江戸時代の家庭では、水の使用量は今よりずっと少なく排水も多くは庭などへの散水に使われ、河川へ流される量は非常に少なかった。ちなみに、家庭からの排水を鮎がすめる水質にするにはどれだけ希釈しなければならないのか調べてみると、びっくりするような数値が掲げられている。米のとぎ汁1リットルは風呂桶(300リットル)30杯、オレンジジュース1杯は同じく1.3杯、味噌汁1杯は0.57杯、食器用洗剤10ミリリットルは1杯、石鹸液10ミリリットルは0.27杯の水が必要である。

 このように江戸時代の家庭排水は量が少ないだけでなく、環境への負荷も極端に軽い水質であった。

もう一つの産業排水はどうであったろうか。

 水を大量に使う当時の産業としては、風呂屋、染物屋、紙漉業があげられる。風呂屋は生活廃水の中で述べたように、今より一人当たりの水消費量も環境への影響もずっと少なかった。染物屋・紙漉業は大量生産・大量消費の現代と違い生産量は非常に少なかった。着物は何度も洗張・染め直しされ、良いものは親子3代使われ、古くなると解いて赤ちゃんのオムツや雑巾にと再利用されていった。ほとんど袖を通していない服がタンスに一杯入っている今のような時代ではないのである。親方と数人の職人という小規模で、使う染料も藍など植物性のもの。大きな工場から化学染料の排水がドクドクと流れ出すという状態とは程遠いのである。紙漉は名古屋でも行われていたが、地場産業といえる規模ではなかった。今の西区城西二丁目にかつては「紙漉町」という町名があったが、紙漉の職人が軒を並べていたのではなく、藩の「御紙漉場」が置かれ御用紙を漉いていたのであり生産量も限られていた。

 このように江戸時代は生活廃水・産業排水ともに少なく、水質も環境への負荷が軽かったので、未処理のまま堀川に流入しても希釈や自然浄化され、堀川は非常にきれいな流れを保てたのである。

○ 城下町から産業都市へ

 名古屋は全国有数の大藩 尾張69万石の政治の中心であり、行政・商業の町として栄えてきた。だが明治の廃藩置県により日本は中央集権国家になって政治の中心は東京へと移った。藩の御用やたくさんの武士が生活することにより成り立っていた名古屋の商業をはじめとする産業も衰退の危機を迎えた。従来の都市構造が崩壊したのである。
 世は殖産興業の時代である。名古屋も時代の波に乗り遅れまいと産業基盤の整備が行われた。黒川を開削して犬山から名古屋への舟運を可能にし、木曽川上流地域と名古屋の結びつきを深め、熱田に港を築いて海運の便を図り、東海道線を誘致するなど様々な施策が行われた。


 この結果、名古屋は産業都市に姿を変えていった。最初は繊維産業や陶磁器産業など軽工業が盛んになり、それを基盤に機械工業など重工業へとシフトしていったのである。人口も増えていった。明治9年(1876)は約13万人、27年は20万人、大正元年(1912)44万人、昭和元年(1926)80万人とうなぎのぼりである。


○ 文明開化と上下水道の整備

 街も生活も変わった。街中には工場が建ち、人々の生活もそれなりに豊かになった。行灯がランプになり電灯になる。街を行くのは、駕籠から人力車・汽車・市電へと変わってゆく。明治23年には花王石鹸が売り出され明治末から大正にかけて一般に普及していった。

 大都市になり人口が密集してきた名古屋では、井戸から水を汲み側溝に流すそれまでの水循環では赤痢やコレラなどの伝染病が広がりやすく、排水能力不足による浸水被害が問題になってきた。
 大正元年(1912)には下水道、3年(1914)には水道の使用が始まった。水道ができて主婦は井戸の水を汲んで運ぶ重労働から開放された。汚水は下水道に入ることで蚊やハエの発生は減り、汲み取り便所から水洗便所に変わり、浸水も少なくなる。人々の生活は大きく改善されたのであった。


 だが、物事には裏と表がある。水汲みの重労働から解放されれば水の消費は増える。下水に吸い込まれて目の前から消えた汚水は、その瞬間人々から忘れられる。だが、完成当初の下水道には処理場がなく、生下水をそのまま川へ放流するだけであった。一人当たりの水使用量と人口の増加により大幅に排水が増え、生活の変化により水質も悪化した汚水がそのまま堀川に放流されるようになったのである。

 産業排水も悪化していった。大規模な工場があちこちにでき、街中にも町工場と呼ばれる小さな工場ができた。江戸時代のような名古屋城下や近郊の人々の消費を満たす少量生産ではなく、日本全土や世界を市場として販売する大量生産になったのである。他の産地に打ち勝って販売するには、安くて良い物を生産することが第一の条件である。廃水処理に費用をかけるというようなことは誰も考えず、まして河川環境の保全に関心がもたれることはなかった時代である。

 かつての瀬戸では、瀬戸川が町の景気のバロメーターになっていたという。陶磁器製造の排水で白く濁っているほど、景気が良いといって喜んだという。堀川の汚濁は名古屋の繁栄の結果であった。


 大正の頃までは、朝日橋付近の堀川で染物を水洗いする風景も見られたが、その後急速に水質は悪化していった。昭和の初期、堀川の下流部には市内の学校ボート部の艇庫が並んでいた。当時、名古屋商業学校(通称:CA)でボートを漕いでいた加藤徳彦氏(後の名古屋市漕艇協会会長)は「練習が終わって艇をしまう時、舷側にべっとりと付いた油をとるのが大変だった」と思い出を語っている。

 さすがに堀川浄化が課題になってきた。昭和5年(1930)に堀留、熱田の下水処理場が完成し、日本では始めての散気式活性汚泥法により浄化してから放流するようになった。これを受けて、昭和12年になると「水洗便所築造に関する条令」が制定され水洗化が始まった。だが、名古屋をはじめこの時代の下水道は合流式であった。汚水と雨水を1本の管で排水する方式である。安価に整備できるという大きなメリットがある。だが、雨が降り下水管を流れる水量が増えると管が一杯になるので、所々で堀川へつながるパイパス管(余水吐)を設け、未処理の下水を放出する。余水吐から川へ流れ込む初期の水は、下水管の沈殿物や道路面の汚れを洗い流した水であり非常に汚い水である。これが、堀川汚濁の大きな一因になっている。


○ 昭和初期の浄化対策

 昭和10年(1935)頃には堀川のBOD(生物化学的酸素要求量:水中の有機物を分解するのに必要な酸素の量)が35 mg/Lにもなり、同様に汚濁が進んでいた新堀川・中川運河も含めて浄化が課題になった。
 当時の市下水道課長(後に名古屋市長)であった杉戸清氏は、木曽川の水を新木津用水経由で堀川へ導水するとともに、中川運河の河口部から名古屋港の水を導入して松重閘門で堀川に、さらに新堀川に流して浄化する構想をたてた。この実現に向けた木曽川からの導水実験が12年から16年にかけて断続的に行われ、ある程度の成果をあげた。また、名古屋港から中川運河経由で堀川への導水は、昭和12年に松重ポンプ所が造られ、構想の第一段階の事業として実施された。


 その後、太平洋戦争のアメリカによる爆撃で名古屋は工場も住宅も壊滅的な被害を受け、疎開が行われて人口も大幅に減少した。産業も人口も減ったこの一時期、堀川はきれいな水に戻ったと伝えられている。



○ 戦災復興と高度成長、公害問題の発生

 戦争の終了とともに、焼け野原になった町の復興が始まった。食べるものも着るものも住むところも無いなか、人々は生きるために必死になって働いた。堀川の水質より、日々の暮らしで精一杯であった。日本中がそうであった。努力のかいあって、日本経済は高度成長の波に乗った。低価格を武器に大量生産する世界の工場となり、神武景気・岩戸景気と呼ばれるかつてない好景気を経て経済は拡大していった。生活水準も向上し「消費は美徳」という言葉も生まれた。

 だが、大量生産・大量消費の華やかな社会の裏面で、人知れず公害が広がっていた。
 昭和30年(1955)代になると、それまで「風土病」とも言われた熊本の「水俣病」や富山の「イタイイタイ病」などが、工場排水による公害病ではないかとの説がでてきた。堀川の水や魚は利用されていなかったので公害病は発生しなかったが、真っ黒な水が流れ、鼻を突く臭いは川岸だけでなく沿川地域に広がっていた。このようななか、名古屋市は38年に河川浄化係をつくり、水質の測定や庄内川から堀川への試験通水など浄化に取り組み始めた。



○ 最悪期の堀川と水質の改善

 40年(1965)代になると水質・大気・地盤沈下など様々な公害に反対する市民運動が全国各地で激しく繰り広げられ、川の水質に関心がもたれるようになってきた。堀川もこの頃が一番水質の悪い時期であった。41年のBODは54.8mg/L。今では信じられないような数字がでている。まさに死の川である。42年に堀川の清掃で回収されたごみの量は915立方メートル、こも751枚、犬など動物死体1,443体など膨大な量であった。

 46年に水質汚濁防止法が施行された。一部からは国際競争力が低下し日本の産業が衰退することを危惧する声もあったが、排水規制が始まった。
堀川では40年からヘドロの浚渫が始まり、名城・千年下水処理場が完成して下水は全て処理してから堀川に流されるようになり、急速に水質が改善していった。50年(1975)代になるとBODが10mg/L以下になり、回収されたごみの量も57年には塵芥336立方メートル、こも類21枚、動物死体131体にまで減ってきた。

 その後は大きな変化は無く、ここ10年間はBODが6〜8mg/L、DO(溶存酸素量)が2〜4 mg/Lで推移している。


○ 導水などによる水質改善と河川環境の整備

 堀川の一番の弱点は水源がない事である。下水処理場の排水が水源のほとんどを占めている。

 木曽川導水事業計画が昭和58年(1983)に始まったが、水利権などの問題から進捗せず平成12年(2000)に中止された。また63年(1988)になると「マイタウン・マイリバー整備事業」が始まり、納屋橋などで遊歩道のある護岸整備など水辺環境の改善と、水質浄化のためのヘドロ除去がすすめられている。

 このようななか平成10年(1998)から3年間、地下鉄工事の地下水が堀川へ排水され、上流部の黒川が山奥の清流のような水質になった。オイカワは水面が黒くなるほど群れ、底の砂をすくうと蜆がたくさん取れ、清流にしか生えない水藻も見られた。
 工事の終了とともに地下水は放水されなくなり、環境の大幅な悪化が懸念された。このため、庄内川から毎秒0.3立方メートルの通水が行われるようになり、庄内川から通水できないときは守山区内にある瀬古の井戸から0.02立方メートル、さらに古川からもわずかな水量ではあるが水を補充するようになった。

 平成13年には水質改善策を検討する「清流ルネッサンスU」が始まり、中流域ではBODが5 mg/L以下、DOが5 mg/L以上とする目標が掲げられている。
 具体的には河川と下水の施策が行われる。河川の施策として、庄内川の水質改善や流水の直接浄化、溶存酸素を増やすための流水への空気補給が計画されている。下水は合流式のため、雨が降ると余水吐から堀川へ生下水が排出されるが、滞水池への汚水の貯留や、ポンプ所のスクリーンの目幅を狭くしてごみが堀川に流れ出しにくくすることが計画されている。



 堀川と名古屋の街の歴史をたどってきた。堀川は名古屋の街の鏡であることに気がつくであろう。人々の暮らし方や産業のあり方がそのまま堀川の水質に反映してきている。

 生活の便利さ・快適さがたかまるとともに水の消費と排水の量は増え、その水質は悪くなっていった。今でも台所のごみを粉砕してそのまま下水に流し、不快なごみ出しの手間がなくなるという単体ディスポーザーや、てんぷら油に混ぜるとそのまま下水に流せるようになるというふれこみの薬品など、一見魅力的な商品が売られている。下水の行きつく先は堀川であり名古屋港である。

 産業排水も水質規制により以前に比べれば改善されたが、一部の工場などの排水口を見ると、今の規制には合格しているものの非常に汚い水が流されている。

 川には大きなビニール袋に入ったごみがプカプカと流れていることもある。

 今は過去の積み重ねであるが、過去に堀川を汚してしまったことを批判しても何も進展しない。その時代に抱えていた問題を解決し少しでも良い明日になるように、その時代の人たちが努力した結果なのである。

 今の時代に生きる私たちは、過去の歴史から何を学び、何をすればより良い明日の堀川をつくることができるのであろうか。それぞれが置かれた立場で考え、一つずつ実行していきたいものである。

このページは、筆者が2004年9月に「堀川清桜会」で行った講演を加筆修整したものです。
 2005/03/14