地中から現れた
堀川の川港
 名古屋の城下町の南端近くの洲崎には、港があった。今の港のような大規模なものではないが、尾張藩や堀川にとって非常に重要な施設であった。

 舟運と川港  地中から 立派な石積み  尾張藩 御用船の港

舟運と川港

 港といえば、今では名古屋港や四日市港などの海に面した港を思い浮かべる。かつては舟が唯一の大量輸送ができる交通手段であり、川沿いには人や物を運んできた舟が接岸したり停泊するための多くの港があり、川港は交通や流通の結節点になり、川港を中心に発達した町もある。

 堀川は、名古屋唯一の川。毎日、多くの舟が行き交っていた。堀川は人工的に造られた川で、岸に設けられた物揚場から荷の積み降ろしが行われ、四間道の蔵にみられるように、川岸に舟を着けて直接荷物を蔵に運ぶこともでき、堀川全体が港のような機能を持っていた。 

地中から立派な石組み


 昭和58年(1983)に、若宮大通の地下から立派な石積みが見つかった。都市高速道路の堀川東岸1本目の橋脚あたりである。
 昔は、この付近は谷になっており、紫川という川が堀川に流れこんでいた。この川の堀川への合流点から少し東に入った所であった。
 開削当時の堀川の護岸は素掘りであったが、この部分は立派な石積みで造られている。また、石には名古屋城と同じ模様を刻んだものもあった。このことから、堀川の川港で、丁寧な造りから相当重要な施設と考えられる。
 切石を4〜5段に積んである。高さは1〜1.5m位。
 左の丸石を積んだのは紫川の護岸。上のほうは壊れているが、元の高さは2m位。
 紫川の護岸の上から見た状態。紫川の川底にさらに一段低く切り石積みの部分が造られている。このあたりの堀川の水面は、干満の影響で通常時でも2.5m位上下する。筆者は、水面の高さが変わっても舟が接岸できるように、2段構えの構造にしてあるのではと想像している。
刻印 

尾張藩 御用船の港

紫川
 古地図を見ると、紫川の河口部近くに川幅が広がったような表示がされている。ちょうど、石積みが発掘されたあたりだ。
 南には、尾張藩の水軍関係者がいた「御水主屋敷」があり、北側には「御船手役所」や「船御番所」など、藩の水軍や河川行政の中枢を担う施設が集中していた。
 このような周辺環境と施設の立派さから考えると、これらに関係する船が接岸や停泊するための港だったと推定される。
 『名古屋城下図』(江戸末期)  『尾府全図』(明治2年)
明治になったが、廃藩置県の前。まだ江戸時代のままである。
『最新詳密 名古屋市実測全図』 (明治37年)
 周りにあった藩政時代の施設はなくなり、洲崎橋が新設されているが、川港はまだ健在だったようだ
 

伊藤正博

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