堀川と江川を結ぶ
水路と水車
 今では都心の天王崎橋の南西。ここには江川と堀川をつなぐ水路があり、水車がまわっていた時代があった。
『御船御行列之図』部分
堀川につながる水路があり橋が架けられている

 堀川と江川を結ぶ水路  水車・油・あかり

江川と堀川を結ぶ水路

 かつての「江川」を知っている人は、相当高齢の方だけになってしまった。

 堀川と平行して流れていた江川は庄内用水の東井筋とも呼ばれ、農業用水として熱田新田などの灌漑に使われ、沿川の排水路にもなっていた川だ。堀川と江川は、この場所のほか何か所かでつながり、江川から堀川に水がそそいでいた。これは江川の余った水や、大雨などのときに排水しきれない水を堀川に落としていたのである。川と川を結び水のネットワークにすることで、用水や排水がうまく流れるように造られていたのである。

 江川は「江川線」という道路名にわずかな なごりを残し、堀川とつながる水路は、すでに忘れ去られてしまった。
『改正 愛知県名古屋明細図』(明治10年) 部分
水路には3か所橋があっ
『大名古屋市全図』(大正11年) 部分     
江川は残っているが、水路は無くなっている

水車・油・明かり

水車町 水車地区
 この水路では、水車がまわっていたことがある。

 貞享元年(1684)、納屋町に住んでいた新蔵という人が、藩の許可を得て水車をかけた。水路の上に、長さ8間(約14.6m)の水車小屋を造ったと記録されている。 普通の水車小屋は4〜5m。ここのはずいぶん大きな水車小屋だ。2連とか3連の水車だったのだろうか。高低差のない場所なので、川の流れが水車の下端を押す「下掛け式」の水車であっただろう。

 この水車は油を絞るのに使っていた。電気のない昔、夜は油を燃やし明かりをとる行燈(あんどん)がたより。菜種を水車でひいて粉砕し油を絞って、城下の人々に売っていたのであろう。

 公共の水路を使うので、藩に年間600人の人足を対岸にあった藩の蔵に出すか、あるいは金10両を納めることが条件であった。

 この水車はわずか10年ほどで廃止されたが、「水車町」という町名として長く残り、昭和30年代頃までは「水車地区」という言葉も聞かれた。


                             
『名古屋城下図』(江戸時代末期) 部分
左下に「水車丁」の記載がある

  参考:『那古野府城志』

伊藤正博

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