名古屋最大の用水
庄内用水
 

 名古屋最大の農業用水、庄内用水.......といっても、都市化がすすんだ今日では名古屋に住んでいる人たちでさえも、知らない人の方が多いのではないだろうか。
 肥沃な穀倉地帯であった濃尾平野。農業の生産力が名古屋の発展を支え、稲作農業を支えたのは用水だったのである。 


 戦国時代に開削  尾張六大用水の一つ  水量の確保に腐心



 惣兵衛川ともよばれる庄内用水の開削は元亀・天正年間(1570〜1592)と伝えられているので、織田信長や豊臣秀吉が活躍していた頃である。
 戦国大名達は、領地の経済力(=国力=戦争時の戦力)を高めるため、国内の農業や商業、鉱業の振興、治水や道路整備にも力を注いでいた。庄内用水もそのような戦国の時代背景の中で造られたのである。

 開削とはいっても、この地域は沖積平野。以前から旧庄内川の川跡の小河川を利用した小規模な用水による稲作が行われていた。元亀・天正年間に、これらを拡張や整理統合し現在の姿の原型が造られたものと思われる。
 庄内用水は「惣兵衛川」とも呼ばれているので、あるいは「惣兵衛」という人がこの事業に関係したのかも知れないが、名前の由来は伝えられていない。


 庄内用水は庄内川から取水し、現在の名古屋の西半分の広大な地域を灌漑していた。
 江戸時代の本『古今卍庫』には、尾張の六大用水の一つとして「稲生杁」の名前で載せられており、杁(川から用水への取水口)は3腹(か所)、井高は33,632石と記録されている。

 用水の支川には、東井筋(江川)、米野井筋、中井筋、稲葉地井筋があり、これらの支川からさらに枝分かれした大小の水路が網の目のようにめぐらされ、田をうるおした余り水は荒子川や笈瀬川へ流れ込んでいた。
 最盛期には北・西・中村・中川・熱田・港区の3,900ヘクタールもの美田をうるおしていたが、都市化とともに東井筋と米野井筋は埋め立てられ、今では中井筋と稲葉地井筋により流域にわずかに残る77ヘクタールの田に利用されている。

 毎年のように夏になるとどこかの地方が水不足になり、テレビはひび割れたダムの底や田の姿を映し出す。
 いまの時代の水不足は、都会に住む多くの人には節水で生活が不便になるという問題でしかない。だが、かつての農民にとって水不足は、文字通り死活問題であった。豊かな水と夏の強い日差しはたわわに実った秋の稲穂を約束し農民の顔に明るい光をさしかけ、乾いてひび割れた田や冷たい夏の空気は農民の心に暗い陰をおとした。

 用水の歴史は、水量を確保する歴史と言っても過言ではない。庄内用水は何度も取水する場所や流路を変えている。
川は生きている。上流部では浸食により川底が少しづつ下がってゆき、下流部では土砂の堆積で少しづつ川底が上がってゆく。川底が下がると水面も低くなり用水のへの取水が難しくなる。川底が高くなると用水へも土砂が流入し、用水路の維持が難しくなる。水源の庄内川の流量も名古屋南部で新田開発が進むと不足がちになってきた。
 十分な水量を安定して確保することは大変なことだったのである。

 庄内用水の主な変遷をたどってみよう。

元亀・天正年間
(1570
〜92)
庄内用水が開削される
慶長19年
(1619)
稲生村(現:西区)に定井(恒久的な取水口)を造る
寛永19年
(1642)
日比津村(現:中村区)に定井を造る
正保4年
(1647)
熱田新田の開発により必要になった水量を確保するため、木曽川の水を木津用水を造って庄内川に流入させ、この水を取水することになる。これに伴い日比津村の定井を廃止し、稲生村に定井を増設し2腹とする。
寛保2年
(1742)
庄内川の土砂の堆積で、稲生村の取水口からだけでは十分な水量が確保できなくなったので、庄内川上流部の川村(現:守山区)にも取水口を造る。矢田川の下は伏越(地下の水路トンネル)で越え、大幸川に流入させ、この水を稲生村で従来からの庄内用水に流入させる。これにより取水口は、稲生村と川村の2か所になる
寛政4年
(1792)
川村で取水し名古屋城のお堀へ導水していた御用水を拡幅し、途中の瀬古村(現:守山区)で御用水から別れ成願寺村(現:北区)、中切村、福徳村(現:西区)を経て矢田川を伏越で越え稲生村で従来の庄内用水に流入させる。これに伴い寛保2年からの大幸川経由のルートは廃止。
この時の、成願寺村から福徳村への庄内用水路が、現在の三郷水路の原型である。
明治10年
(1876)
黒川(堀川上流部)の開削に伴い、新木津用水(八田川)が庄内川に流入する対岸の高間村(現:守山区)で取水し、矢田川を伏越で越えた所で黒川と庄内用水とに分流し、庄内用水は当時の矢田川に沿って西に向かい稲生村で従来の庄内用水に流入するルートになる。これにより寛政4年からの御用水を利用したルートは廃止される。
これにより、現在の庄内用水の流路が完成。
大正9年
(1920)
安定した水量を確保するため、新木津用水の庄内川流入地点から対岸の庄内用水元杁樋門まで伏越を造り導水する計画がたてられたが、予算の都合で中止となる。
昭和19年
(1944)
安定した取水のため元杁樋門前の庄内川に頭首工(水位をせき上げるための小型のダムの様な形の施設)を造ることが計画されたが戦争のため中止となる。
昭和23年
(1948)
前年の大干ばつの経験から、用水の流量確保のため、元杁樋門下流に井戸を掘削。中村区内でも伏流水の取水と民間の井戸から取水するための工事が行われる。

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伊藤正博 1997/02/01 

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