一粒でも多くの米を 瀬古の井戸
巨大井戸

 庄内用水元杁樋門のすぐ下流に、巨大な井戸がある。瀬古の井戸と呼ばれている。直径は6メートル、井筒の高さは3メートルというジャンボサイズだ。たぶん、名古屋で一番大きな井戸ではないだろうか。所々コンクリートの表面がはがれて中の鉄筋が赤錆びた姿をのぞかせ、風雨にさらされてきた長い歳月を物語っている。

 迫りくる 餓死  米の増産 庄内用水へ少しでも多くの水を  戦後の遺物から 黒川の水源へ

迫りくる 餓死

 この井戸が造られたのは昭和23年、食糧危機のさなかであった。食料危機といっても、今では年配者以外は理解できないであろう。

太平洋戦争により働き盛りの男たちは兵隊にとられて戦地に送られ、残された老人や女性の手で農業が続けられていた。軍需産業を優先させ農業基盤の整備は行われず、日本は大幅な食糧不足に陥っていた。そこへ敗戦とともに外地にいた陸海軍の兵士350万人、民間人310万人が順次引き揚げてきた。食物も帰る家も仕事もない。焼跡・バラック・闇市・買出し・たけのこ生活・戦災孤児がこの時代のキーワードである。配給の食糧は遅配・欠配が続き、人々は芋の蔓や路傍の雑草まで食べて命をつないでいた。22年10月には、裁判官という職務から闇の食料を拒否し、配給だけで生活していた東京地裁の山口判事が餓死するという事件も発生するような時代である。食料の増産が最大の課題であった。

米の増産 庄内用水へ少しでも多くの米を

 当時は名古屋市の北部から西部・南部にかけて広大な田がつくられ、庄内用水により灌漑されていた。米の増産には少しでも多くの水を送る必要があるが、『終木津用水史』によると昭和22年(1947)は明治9年(1876)以来の大干ばつになった。ただでさえ流量が少ない庄内川から取水している庄内用水は大幅な水量不足になり、翌23年から地下水による補給が3か所で行われるようになった。
 その一つが、瀬古の井戸である。庄内川に近いこの場所に巨大な井戸を掘り伏流水を庄内用水に流し込むことにした。
 深さ8メートルの井戸の横にはポンプ小屋が建てられ、汲み上げられた水が用水に注がれた。井筒は鉄筋コンクリートで造られている。まだ街にはバラック建築も多く、資材が十分入手できなかったこの時代に不釣合いなほど頑丈な井筒は、一粒でも多くの米を収穫するため、いかにこの井戸を重視したのか偲ばれる。井筒が異常に高いのは、万一庄内川の堤防が決壊しても井戸が埋まらないようにするためという。湧き出た水の量は記録がないが、一定時間ポンプを稼動させると井戸の水位が下がるので、回復を待ってまた稼動するという状態であったと伝えられている。

 このほかに中村区の三菱重工内にあった井戸からの補給と、中村区岩塚町字宮前では庄内川の伏流水を取水する施設の設置が行われたと記録されている。
ポンプ小屋のある瀬古の井戸
昭和42年頃の風景
(左にポンプ小屋が見えている)

戦後の遺物から 黒川の水源へ

 食糧事情が安定するとともに、この井戸もいつの頃か使われなくなり永年放置されていたが、平成13年10月から黒川(堀川上流部)の維持用水として再び利用されるようになった。

上飯田連絡線の工事により湧き出た地下水は黒川へ放流され、黒川は山奥の清流のようなすばらしい環境になった。だが工事の終了とともに放流が中止され、再び死んだ川になることが懸念された。
 この代替水源として13年7月より庄内川から毎秒0.3立方メートルの水を暫定的に黒川へ流すことになった。しかし魚の産卵時期など庄内川自体の環境保全のため取水できないときもある。このような時に、この井戸から毎秒0.02立方メートルの水を汲みあげて黒川に流している。水量は少いものの、清冽な井戸水は黒川の環境維持に役立っている。

堀川へ送る水
黒川へ送られる清冽な井戸水

 飽食の時代になった今では、飢餓に直面した食料危機の時代は忘れられようとしている。
 この井戸は、戦後の食糧危機を今に伝える唯一の証人であり、熱田に残る爆撃跡のある堀川の護岸とともに、おろかで悲惨な戦争の姿を後世に伝える市民の貴重な財産である。

伊藤正博 2004/06/24

 

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