お堀や巾下水道に水を流した
御用水
 

 堀川(黒川)に沿って夫婦橋から猿投橋まで、御用水跡街園が続いている。
 このあたりの堀川は、市内では珍しい草生えの土手が残り、せせらぎにはコモなどの水草がしげるなかオイカワやコイなどの魚影が見え隠れしている。小魚をねらって、コサギなどの鳥が集まり時には「清流の宝石」と呼ばれるカワセミの姿も見かける。さながらふるさとの川といった風情である。
 この堀川を眺めながら散策できる街園は、春には桜のトンネルとなり市内でも有数の桜の名所となっている。
 この街園は、以前は御用水と呼ばれ、名古屋城のお堀や、巾下水道に水を送る水路であった。


 築城から半世紀 御用水の開削  水質悪化 埋めて街園に整備
 


築城から半世紀 御用水の開削

御用水路の図

 名古屋城は慶長15年(1610)に造られ、当初はお堀に水を引く水路はなく自然の湧き水などで満たされていた。しかし、半世紀を経過すると、名古屋台地が市街地になりだんだん湧水も減ってきた。また、人家が増えてきた巾下(現:西区)方面は、海水の干満で井戸の釣瓶(つるべ)が上下したと記録されるような低湿地であり、塩分の無い飲料水を確保する必要もあった。このため、寛文3年(1663)に御用水が開削された。

龍泉寺近くの川村(現:守山区)で庄内川から取り入れた水を西へ流して矢田川に流入させ、対岸の辻村(現:北区辻町)で矢田川の水とともに取水してお堀に注入した。これにより、お堀に常時きれいな水が流れ込むようになり、余分な水は堀の南西に造られた龍の口(排水口)から堀川へ流され水位が一定に保たれた。

さらに、御用水の水は水道にも使われていた。堀の西端から取水し、西水主町(現:中村区)まで給水していた巾下水道がそれである。水道は地中に埋めた木や竹の筒で配水され、分岐するところには枡が設けられていた。
 江戸の神田上水[天正18年(1590)]や玉川上水[承応3年(1654)]は全国的に有名であるが、名古屋でもすでに江戸時代の初期には水道が引かれていた。「水道の水で産湯を使った」と自慢するのは江戸っ子の特権ではなかったのである。

最初は庄内川の水を矢田川に流し入れ、両者の水を一緒に取水し流していたが、矢田川の流砂が用水路に堆積し流れが悪くなってきた。水路を掘り替えたりしたものの維持管理が難しく、延宝4年(1676)に矢田川の下をくぐる伏越(水路トンネル)が造られ、庄内川の水だけを流すように改良されている。

用水の両岸には松が植えられていた。これは、日陰をつくることで飲料水にも使用する水の温度が上がらないようにするためと表向きには言われていた。その一方、この土手は名古屋城が落城したときに、ここを通って定光寺に向かう抜け道で、目立たないようにするために松並木が造られたとも伝えられている。江戸時代には用水の土手を通行することは禁止するという高札が建てられていた。

この松並木は戦前まで残っていたが、戦争末期に飛行機の燃料となる松根油をとるために伐採された。今は夫婦橋の近くに数本残る老松が、わずかにそのなごりをとどめている。

明治になり、北区では染色業が発展した。染色にはきれいな水がたくさん必要であるが、御用水の水を工場に引き込み名古屋友禅などの見事な染物が行われていた。

『御用水水路之図』
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通行禁止の高札
通行禁止の高札が建っていた
水路の老松
今も残る老松

水質悪化 埋めて街園に整備

 昭和30年(1955)代になると、水源である庄内川の水質も悪化し、しだいに用水もどぶの様になってきた。このため、昭和47年(1972)に、夫婦橋から猿投橋までの約1.7qをうめて黒川(堀川)ぞいの散歩道にする工事が始まり、昭和49年(1974)に完成している。当時、市内各地で廃線になっっていった市電の敷石を散策路に敷き、再利用されている。

 30年を経過し今では木々も大きく成長して、かつての松並木の風景は桜並木に変わったが、緑豊かな水辺の散策路として多くの人が利用している。

かつての御用水
埋立前の御用水
【参考】『守山市史』『新修名古屋市史』

伊藤正博 2004/7/13

    

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