「彩紅紅雲」清流に花ともみじの
大幸川
『元文三年名古屋図』 (1738) 部分
 

 今では姿を消した川 大幸川。かつて北区の用水や排水につかわれ、今の黒川(堀川)の一部にもなった川である。
 はるか昔、庄内川や矢田川は上流から土砂を運んできて下流部で堆積し、海であったところが少しずつ陸地になっていった。川岸には自然堤防ができたが、土砂の堆積により川底のほうが周辺の土地よりも高い天井川になってゆく。大雨の時に堤防が破れると、より低い場所に新たな川が生まれ、同じ活動を繰り返していった。名古屋台地の北や西に広がる土地は、このようにして生まれたのである。
 洪水の後、以前の川はちいさな川として残ることがあった。台地の周辺を流れていた大幸川、江川、笈瀬川などは、かつての庄内川や矢田川の跡である。


 流れる先は 江川から堀川へ  黒 川 の 支 流 へ  「彩紅紅雲」 桜と楓の川へ
 地上から姿を消して  


流れる先は 江川から堀川へ


 大幸川は明治24年の地図によると、今の千種区竹越付近と名古屋市立大学付近から流れだし、二つの流れは今の北公共職業安定所付近(北大曽根町上二丁目)で合流している。沿川の地域は天井川であった矢田川の影響で地下水位が高く、50pも吹き上げる自噴泉や地面から水が湧き出す「川田」と呼ばれる田があり、大幸川はこれらの湧水や田の余り水が水源になり、当初は西に流れて江川にそそいでいた。

 明和4年(1767)7月12日、大雨により庄内川や天白川など多くの堤防が切れ、尾張各地は大災害に見舞われた。猿投山では大規模な山崩れが発生し、土石流とともに流れ下る激流は猪子石で矢田川の堤防を破壊、さらに大幸川に沿って名古屋城の巾下門まで一気に押し寄せた。付近一帯は海のようになり、巾下あたりでは水深5尺(1.5m)を超え、なかなか水が引かず数日間は舟で人々が行き来する惨状であった。大幸川が流入している江川では十分な排水ができなかったことから、天明4年(1784)に大幸川を堀川に接続する工事が行われた。この年は明和の大災害の経験から抜本的な治水対策が行われた年であり、新川の開削や洗堰の築造、庄内川の浚渫と堤防の補強なども行われている。これにより大幸川の水はけが良くなり、沿川が水につかることは無くなった。切り離された旧大幸川の下流部は、「大幸古川」「古川」と呼ばれ、流量は少ないものの昭和初期まで沿川の用水として永く利用されていた。

黒川の支流へ


 その後、明治10年(1878)に、名古屋と犬山の舟運と庄内用水の水量確保を目的に黒川(堀川上流部)が開削された。庄内川の水分橋のたもとで取水し、矢田川の下を伏越でくぐった水は、御用水に沿って新たに開削された水路を流れ、今の猿投橋の付近で従来の大幸川に流入させた。この川は開削した技師の名前から「黒川」と名づけられ、大幸川の名は黒川へ流入する地点より上流のみ残された。
『明治24年地形図』 (部分)


「彩紅紅雲」桜と楓の川へ

大正になると、名古屋に近いこの地域は、都市化を目指した耕地整理や土地区画整理が盛んに行われるようになった。入り組んだ耕地を整理統合し、大八車がやっと通れるような狭い里道を自動車が通れるような広く直線的な道路にして利用価値を高める事業である。このなかで、大幸川も整備され直線的な流れに変えられた。今の猿投橋から大曽根に向かう道路がその川筋である。将来は清流に花と紅葉が映える名所となるよう、川岸には桜と楓が植えられた。橋も架け替えられ、上飯田と森下駅を結ぶメインストリートにかかる橋は、中国の詩にある「彩紅紅雲」という一節から「彩紅橋」と名づけられた。今は「彩紅橋通」「紅雲町」の町名に名残を残している。


地上から姿を消して


 名古屋では明治末期から市街地で下水道の整備が始められ、順次周辺地区に拡張していった。昭和初期は大変な不況で、失業対策の面からも積極的に整備が進められ、大幸川も暗渠化され「大幸幹線」と呼ばれる下水道になり姿を消した。橋も撤去され、彩紅橋の親柱は下飯田一丁目の六所社西にある城東耕地整理組合の完成記念碑の脇に保存されている。猿投橋の下流左岸には大雨のときに大幸幹線から黒川へ排水する口があり、かつて大幸川があったことを示している。
黒川に注ぐ「大幸幹線」
六所社西に残る 「彩紅橋」の欄干
参考】『守山市史』『新修名古屋市史』


 2004/7/22