平安時代からつづく 泥江県神社
           広井八幡宮(泥江縣神社)

 宇佐八幡宮から勧請  傘 鉾 祭  恵比寿社の引越し
 子供相撲の興行  境 内 探 訪

宇佐八幡宮から勧請
 祭神は、応神天王、神功皇后、三女神。
 全国に4万社余りあるといわれている八幡社の総本宮が、大分県宇佐市にある宇佐八幡宮。社伝ではこの広井八幡宮は、清和天皇治世の貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請したと伝えられている。

 八幡神は軍神(いくさがみ)と言われ、国家鎮護の神として大和朝廷と深いつながりがあった。
 九州では720年に「隼人の乱」、740年に「藤原広嗣の乱」がおき、大和朝廷は宇佐八幡に祈願の勅使を派遣し乱を平定した。これを契機に軍神としての評価が高まったようである。

 広井八幡宮が勧請された859年には、岩清水八幡宮(京都府八幡市)も勧請されている。この年は、源氏の祖と言われる清和天皇(在位:859〜871)が即位した年。
 大和朝廷にとり東日本の併合は永年の課題であった。延暦20年(801)には坂上田村磨が4万の兵を率いて阿弖流為(アテルイ)と戦い、大和が勝利しているが、その後も「まつろわぬ民」と呼んだ蝦夷の抵抗に度々あい、この時代も手を焼いていた。

 大和武尊と宮簀媛命(みやずひめのみこと)の伝承が残るように、大和朝廷と親密な関係があった尾張に、大和朝廷の軍神である八幡宮が勧請されたのは、あるいはこのような時代背景からかもしれない。
   江戸末期の広井八幡宮。 『尾張名所図会』
 
広井八幡は名古屋遷府以前からこの地にあり、八町(870m)四方の広大な境内地をもっていたと伝えられている。遷府の町割で狭められたとはいえ、この頃でも広い境内があり、子供相撲などの興行が行われたこともある。

傘鉾祭


 広井八幡宮では祭の時、以前は神輿を材木町の白山社まで渡御し、延宝4年(1676)からは山車も出ていたそうである。しかし、享保9年(1724)の火災で山車が焼失し、その後は傘鉾がでるようになった。

 右の絵は江戸末期の傘鉾祭の模様。傘の周りをしゃれた模様の布が飾り、上には趣向を凝らした飾りが載っている。
 一番手前は花車、これは大須観音へ馬の塔を出した時にも花車の飾りを付けた花車町の傘鉾であろうか。次は鶴に乗った仙人。3番目は安定した治世の象徴、諫鼓鳥。小鳥町は大須観音の馬の塔の時に小鳥籠の飾りを付けたそうですが、これも鳥が乗っているので小鳥町だろうか?。4番目はお膳に載った貝から湯気が出ています。「その手は桑名の焼きハマグリ」で桑名町かと思ったのですが、木挽町が梵天祭で同様の飾りを梵天につけた記録があるので多分木挽町でしょう。5番目は恵美須さんが魚篭を持っているので、蛭子町の出し物でしょうか。一番後ろのは、将棋盤の上の瓢箪から馬(駒)が出ている。しゃれと趣向をこらしたかざりである。

 昭和20年(1945)の空襲で傘鉾は神社もろとも燃え、その後長らく途絶えていたこの祭が平成9年(1996)に復活したとのことである。
 傘鉾は京都と信州の須坂市では今でも行われ、須坂市には「傘鉾会館」もあり、きらびやかな傘鉾が展示されている。

傘鉾まつりの絵
『尾張名所図会』

恵比寿社の引越し


 広井八幡宮の拝殿の右奥には、多くの社が並んでいる。その中でも一番大きいのが恵比須社。実はこの神様、天保6年(1835)10月1日に山王稲荷から引越ししてみえた。この絵は、それを迎えるための行列の様子を描いたものである。
 山王稲荷にあった社が痛んできたものの、氏子が少なく修理もままならない‥‥これを聞いた広井八幡の神主さんが、八幡宮へ遷座することにし、多くの町内からをお迎えの人が出た。下園町、米倉町、御園片町、船入町、葭町、伊倉町、中御園町の幟が見えている。

 山王稲荷にあった古社を車に積んで運んできたが、御園町から袋町への木戸では社の屋根がつかえるので少し屋根をとり、八幡宮に着いたら門から入らないので、塀を2間(3.6m)ほど取り払ってやっと入れたとのこと‥‥大変な引越しだったようである。

 趣向を凝らしてこれほどの行列でお迎えに行くとは、広井八幡宮の氏子たち、堀川沿川や碁盤割の商人だけあって相当の財力があったようだ。
『名陽見聞図会』

子供相撲の興行


 江戸時代の寺社は、広い敷地を活用して興行の場にも使われた。
 ここ広井八幡宮では、天保6年(1835)潤7月23日から、晴れの日10日間ほどの、子供相撲の興行があった。
 非常に人気を呼び、境内や門前は大賑い、ご祝儀の品が伝馬橋のたもとまで並んだ。右の絵は、その時の伝馬橋の様子・・米俵や薦かぶりの酒樽らしきものが積まれている。

 広井八幡の神、軍神=弓馬の神の弓がよく当たる事と、興行が当たることをかけて、
   弓矢をバ 守らせ玉ふ 神なれバ
          子供相撲も あたりこそすれ 
  という狂歌も詠まれている。

 『名陽見聞図会』の天保3年(1832)から天保10年(1839)の間には、
  天保3年(1832) 3月  花相撲の興行
  天保6年(1835) 2月  鉄扇浮世ばなし興行
  天保7年(1836) 8月  相撲の土俵入り
              が行われたとの記録が残されている。
伝馬橋のたもと

境内探訪

鳥居 泥江縣神社 住吉社など 恵比寿社
ビルの谷間だが落ち着いたたたずまい
八幡宮
 境内右奥には、恵比須社を始め、住吉社、菅原天神社、秋葉社等が祀られている
恵比須社
錦稲荷 ご神木 白龍様 白竜様 江戸廻船 常夜灯
  錦稲荷社
1783年(天明3年)に尾張藩士が自邸に祭ったものを遷座
  ご神木。
 幹周り3.5mの大銀杏
  白龍自然石
右下に白蛇が巻きついたかのように模様が浮き出ている
  常夜燈の竿部分
 「当国江戸廻」「天保十二年」(1841)と刻まれ、江戸への廻船業者の住吉社への奉納であろう。
 堀川の舟運と江戸廻船による物資輸送がしのばれる

伊藤正博 

 五条橋〜納屋橋地図

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